普通のことを普通に書く日記

日記とその他を書いています。

9/6

エアコンの暑くなる/涼しくなる温度の境界がわからない。0.5度のデジタルな変化の中に明確な境界があり、ちょうどいい温度が見当たらないように思う。

眠れないので、皿洗いをする。眠れない日に家事を消化するのはわりとありなのかも...

昨日の日記の引用「未来に期待せずに未来に期待するという技術の中で最も重要なことは思考(あるいは未来予測)を停止して延期し続けることなのかもしれない。だから、読書や執筆がその技法として選択されるのだろうか。そして、延期し続けることによって、時が流れる。」

このように昨日は書いたけれども、思考を停止して延期し続けることが最も重要なのではなく、今の自分に最も適した期待にチューニングするということも同じくらい重要なのかもしれない。その最も適した期待は時間によって刻々と変わっている印象がある。

あまりにお腹が減って歯を磨いた後に無印の紅茶のバームクーヘンを食べてしまう。大いなる空腹には代償が伴う...再度歯磨きへ...

そういえば寝ても覚めてもをそろそろ観たい。濱口竜介、いっぱい配信されてほしい...

本当に駄目な時間は人間よりも映像作品の方が信用できる。と、言い切ることができるのは自分の良くないところだ。もっと人間を信じたい、と思ってはいる。けれども、人間を信じ続けるのは難しい、本当に。裏切られてなくても、裏切られていると認識してしまう。人間の脳の良くないバグだ。

結局、自分の心の中で最も柔らかく最も汚れている部分は最終的には誰にも受け入れられないまま、それでも生きていくしかない。

膝と膝の間に手を挟むと、しばらく動脈の拍動を感じた。けれども一度手を抜いた後もう一度挟むと、場所がズレたのかもう拍動を感じることはできなくなっていた。

酔ってて眠れなくてあらゆる嫌気がさしてドライブ・マイ・カーを視聴。ドライブ・マイ・カーの冒頭を観る。初めて愛した人をもう全く覚えていないはずなのに、ぼんやりと輪郭なしに思い出す、目も鼻も口もない不定形の顔を。人はそれを雰囲気と呼ぶのかもしれない。

普段はある程度理性で抑えているけれども、理性が薄らいだときに現れる自己肯定感の低さの源泉の一つは案外弟という存在かもしれない。実際のところわからないが、小さな頃から運動能力、手先の器用さ、コミュニケーション能力、頭の回転の速さ、ゲームのうまさ、現実での立ち回りのうまさ、愛嬌、容姿といった幼少期で評価されがちな殆どの項目で弟に負けていたように感じていた。おまけに小中高も一緒の学校に行っていて、彼に勝っていると明確に言えることは勉強に割く時間の長さだけだった。今振り返れば、メタ認知とかは流石に勝っていたのかもしれないが、当時はよくわかっていなかった。ずっと弟とは仲良くやってきたし、両親とも仲は良い方だと思うけれども、もうすこしわかりやすい部分で弟に明確に勝っているとわかる部分があれば、すこし異なる人生を歩んでいたように思う。もちろん自己肯定感の低さが良さに転じている部分もあるが、人生の重要な局面において高頻度で邪魔になる。そういったことも受け止めて生きていかなければならない。

掌より大きいナスと掌くらいのオクラを買った。

自分の感情を醜く感じる。