普通のことを普通に書く日記

日記とその他を書いています。

9/3

映画館の田舎の広告の洗練されてなさはすごい。これもあと1年半でそれ以降は全く観ることがないと思うと、すこし寂しいのかもしれない。

ステロイド・シティを観た。第3幕の先生とカウボーイ、生徒たちが踊るシーンが最も良かった。(作中劇は特に)いつものウェス・アンダーソンの撮り方で、3本目ともなると妙な安心感を覚える。作中劇以外のパートの方がより作中劇な感じがした、構造としてメタであっても、実感としてはむしろ作中劇以外を作中劇に足している感じがする。ただ作中劇以外が出されることによって、キャラクターに奥行きは出ていたようにも感じる。ただ、作中劇以外のパートであっても作中劇以外のキャラクターは作中劇以外でたしかにいるという感覚があった。

 

以下、備忘としての引用:『アステロイド・シティ、通常パートは良いとして、メタパートの通常パートへの侵襲というか言及が枠じゃないところまで入っていてちょっとみたいな感じになった。「アステロイド・シティ」という演劇という枠(しかし描かれるのはパステル調の明らかに「演劇」という空間ではないもの)は今までの枠とは異なり、脚本家と役者という明らかに強い繋がりを持っている。常に「演じる」ということが強調されることになるし、メタパートの言及は常にベタパートに色調を加えることになる。「これは演劇(映画)です」と常に言われる。「これは演技です」と常に明示されるということで常に虚構であるということを頭の隅に置いた状態になる。これまでも枠物語の構造を取っており、常に頭の隅に枠が置かれていたわけであるが、今回は頭の隅に置かれるだけでなく、
「演者の動きは脚本家の意図を反映する」というのが画面に現れ続ける(あるいはそう想起するように意図されている)のは、かなりベタパートに侵襲的だった。なんか他の論考で、1950年代のテレビと演劇のカルチャー、作中での度々現れるアメリカ的モチーフ(ウェスタン的砂漠、核爆弾、軍、宇宙人)をメタ構造と結びつけて論じているものがあって、文化論的なものを上手く表現することに成功していたかは判断できないが、虚構内の構造として面白かったかと言うとぼちぼちでんな、と思いました。メタ構造をしっかりと守り、そこに意味を付与してしまうのは白けちゃうんだよな。』とてもいい文章。

 

もう二度と会うことがない人もおそらく同じ映画を観ているのだろう。同じ空を見ているよりは深く感じる、なぜだろう。

カフェとインスタレーション・アートの近さを不意に感じた。カフェという形式は最も流通している(飲食物を提供するという条件がある)特殊なインスタレーション・アートかもしれない。

けれども、もしカフェの方がインスタレーション・アートより先に存在したならば、むしろインスタレーション・アートは(飲食物を提供するという条件を取り外した)過剰な一般化がされたカフェの一形式というべきなのだろうか。

そもそもカフェとインスタレーション・アートを結びつける「空間」という概念と「オブジェクト」という概念は本来どこにでもある概念であって、それならばカフェとインスタレーションはそれらではない別の結びつき方をしているのだろうか。

全体的に価格が高そうなスーパーで、色も形も大きさも異なる9種類のトマトが陳列されていた。ミニトマトは好きではないので、物好きもいるなと思った。ナス9種類は見てみたい。

発車1分前の電車に小走りする。

脂っこさを一新に引き受けたツケを感じ始める。ホルモン焼き、串揚げ、チャーハン。