普通のことを普通に書く日記

日記とその他を書いています。

9/5

言葉が言葉である限り、本当に心を動かされたことを表現することはできない。言葉でありながら、言葉を越えること。

最もラディカルなロマンは現実と真摯に向き合うことの中でしか生まれ得ない。明日も着々と勉強しよう。

アニメ(に限らず映像作品)の主題歌が存在する理由として、その曲を聴くと映像作品を思い出すからだというのをどこかで聴いた。名前も同じような役割をしているのだろうか。

レンジで加熱したミルクパンが熱すぎる。小さなパン1つをレンチンしたから、熱が集中してしまったのだろうか。

恋と病熱を聴く。その日よく聴く曲があれば、その曲でだいたいテンションがわかる。たぶん明日からは多少ハイになりそうな予感がある。

夏季休暇が終わってから、自分の力を3〜6割くらいにセーブし続けている感覚がある。この科が終わったら、徐々に負荷量をあげていきたい。

今手元にあるマグカップがやや小さいことに気付く。食器類は若干こだわりたい気持ちがあるので、なかなか迂闊に買えないというのが難点。今度買いに行こう。

朝はアイスコーヒー、夜はホットコーヒーを飲みたい季節。

未来に期待せずに未来に期待するという技術の中で最も重要なことは思考(あるいは未来予測)を停止して延期し続けることなのかもしれない。だから、読書や執筆がその技法として選択されるのだろうか。そして、延期し続けることによって、時が流れる。

訂正可能性の哲学を読み終えた。

第一部の私的要約

リベラルの中にある保守性を指摘した後、ウィトゲンシュタインクリプキを経由してコミュニケーションに原理的に含まれると考えられる訂正可能性(規則がプレイヤーを変更させ、またプレイヤーが規則を変更する中でなんとなく生まれるのが家族みたいな)という概念を提出して、その訂正可能性という概念でどこまで社会に言及できるか(たとえば観光客的存在の擁護であったり、リベラルでありながら保守でもあるようなあり方の擁護)を行った。

第二部の私的要約

落合、成田の理論的問題点を指摘するために、ルソーを第一部の訂正可能性に引き寄せた社会契約論の読解(一般意志に纏わるねじれの指摘)を行い、ルソーが書いた新・エロイーズの執筆動機を社会契約論の先ほどの読解の延長線の中で探る(このあたりは存在論的、郵便的のスタイルを思い出した)。また以上の議論を踏まえた上で、バフチンとトグウィルを訂正可能性に引き寄せた読解を行うことで、民主主義における喧騒、私的な主張を行うことを援護した。