街には街の呼吸がある。
日常を描くには、日常以外を描かなければならないのか。たとえば、一般的な小説だとドラマ(あるいは出来事)、音楽や映画やある種の小説だと美しさ、エッセイだと私性といったみたいに。私小説はエッセイの私性を流用しているのだろう(もしくはエッセイが私小説の私性を流用しているのか)。私小説とエッセイの差異は結果としてドラマの有無になるのだろうか。けれども、ドラマの起源には切断が必要だ。遡及をどこで終えるのか。
私小説とエッセイの決定的な差は私性が仮構されたものかという箇所にあるが、表現の水準では設定が現実に基づいているか、一人称の人物が著者と近似した(あるいは大きな齟齬がない)設定であるかというあたりが必要条件として求められるのだろう。
文字のみで美しさを表現することが難しいということもあるだろうが、それよりもそれを読み取らせる他の美術の形式より困難であることから生まれるドラマの発達があるのだろうか。短歌という制限された形式であっても、困難さを感じるときがままある。文字は五感に接続する前に想像というクッションが必要とされるからだろうか。