普通のことを普通に書く日記

日記とその他を書いています。

8/15

今回の小説はまだ(いつも作る時にはあるはずの)本当の言葉を見つけられていない、マジックタッチがないという否定的感覚がある。

大筋は同じであっても文体を再検討して一から作り直す必要があるだろうか。

それとも物語レベルでの再検討が必要だろうか。

しかし、そもそも今日起こるだろうと思っていたマジックタッチが昨日既に起こっていたのかもしれない。このあたりは自分では確信を持てない。

あと、米津玄師のdioramaと三秋縋の(僕にとっての)距離はかなり近いと実作してから感じた。どちらが先かは知らない。追記、diorama:2012年、スターティング・オーバー:2013年。どちらも10年程度前か。

小説、3日で1万字: New record!!←餃子の王将のCMっぽい

良い小説ってなんだろう。良い小説の中に選ばれる小説があって、自分としては悪くない小説を書いているつもりだけれども、良い小説、さらには選ばれる小説まであとどのくらいなのだろう。とりあえず長編を書いてみたいとはずっと思っているが、短編から長編への飛躍がなかなか難しそうに感じる。おそらく作り込んだ登場人物を2人(現状)から4人くらいにすれば自然と中編から長編の長さになりそうな気はするけれども、僕が作る小説は基本的に一人称と二人称しかいないという問題点があるように思われる。何をすれば三人称の登場人物に他者性が生まれるのだろう。そのことはずっと悩んでいる。

普段の小説の作り方
人文書を読む→自分の現在の問題設定をする→小説にそれを落とし込む
今回の小説の作り方
自分に明確な問題がある→米津玄師/dioramaを聴き込む→小説に落とし込む
という点で異なるのか。

僕にとって後者の作り方では文体とかいうレベルではないもっと根源的なレベルで問題を抱えているのかもしれない。
他者の作品を経由して作る時は、かなり気をつけないといけない(というか大幅な改稿の必要性)という参考になった。

でも、そもそも普段何気なくあった良さが失われているように感じるというのは何も悲観することではない。普段何気なくあった良さも"何気なく"あるわけではないということを認識できたこと、そして失われた分プラスに働いているものがあるという可能性があることがあるので良し、ということにしよう。