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電車を電車としてでなく、高速移動する巨大な鉄の塊に感じるときがある、こういうときは総じて精神状態が良くない。
喫茶店で洗濯を改善する話をしている。「水を増やす、柔軟剤を減らす、きちんと乾かす。」
今日はそれなりに近い場所で花火大会があるらしい。喫茶店の店主曰く、花火大会の日の客の入り方、出ていき方にもパターンがあるらしい。特別な行事も視点が変わって数年経てばパターン化される。
17歳の頃、花火大会に異性と行ったことを思い出した。当たり前だが、帰りの電車がやけに混んでいた。もう僕はその頃のような楽しみ方をするのが難しいだろう、少なくとも花火大会に関しては。
たしかに街に浴衣の人間が多すぎる。これがジャパンの夏デース。うるせぇ、美術館に行くぞ!そういえば喫茶店の店主が花火大会の日に美術館に行くタイプはそのあと普段は混んでいるのにその日は空いている美味しい店で夕飯食べがち、と言っていた。わかる、金があればそうしたい。
普段は阪急百貨店に寄りがちだが、今日は阪神百貨店に寄ってみた。店内の色調が異なる。
最近、他者との関係性は交換可能でも他者と堆積した時間は交換不可能だと思った、当たり前だが。
今日のちいかわを見て、たしかに人はああいう形でしか成長することは難しいと感じた。目の前の死を回避するときに現れる今までの堆積した時間の新しい形式での萌芽。強くなりたい、切実に。優しくありたい、このままに。
比喩さえも難しい事柄に対しては比喩としての物語を立ち上げる必要があるのかもしれない。
シューマンを聴きながら都会の汚い川沿いを歩く。汚い川であっても、水面は太陽を反射し光の玉となる。美術館までGoogleマップを使いながら目指していたが、そういえばこの道は歩いたことがある道だった。
本当に美しかった時間はたとえ意識の上から全く忘れたとしても覚えている...と僕は信じたい。
村上隆や奈良美智のような作家の絵画は、キャラクターそのものよりテクスチャを見つめることになる。
ただ、日本の著名な現代の絵画作家であっても、しょうもなく感じてしまうことが多い、好みの問題だが。
優れた美術作品は触れるだけで制作者の生を感じることができる、と錯覚する。鎌田友介の作品は建築物と音の響きを、藩逸舟の作品は狂いの一歩手前もしくは狂いの後の俯瞰を感じた。