付き合うという契約が終わる時

付き合うというのは海外の事情は知らないけれども、日本の場合は《契約》に近いものだと思う。

もし、そうだとするならば、私は1つの《契約》をクリスマスイブに終わらせた。なにもクリスマスイブじゃなくてもいいのに。振った方である私でさえ、そう思った。クリスマスというイベントに相手に合わせることはあってもそこまで意味を感じない私も一応クリスマスを意識するのか?と思ったが、どちらかというと付き合っていた人のことを考えて申し訳なくなった、という方が正しいような気もする。

話が脱線してしまった。そもそも私と付き合っていた人には《ズレ》がいくつかあった。学生もどきと社会人。インドアとアウトドア。イベント嫌いとイベント好き。読書好きと読書しない。映画好きとハッピーエンド以外の映画嫌い。関西と関東。ネガティヴとポジティブ。けれども、そもそも他の人と《ズレ》がない人はいないわけで、契約が終わった理由にはなり得ないだろう。ただ、関西と関東という身体的距離が遠かったのは理由になるかもしれない。しかし、その原因も私にあったけど。

話が脱線してしまった。いや、そもそも話したいことなんて何もなくて、ただ書き留めているように書いているのだけれども。私が付き合っていた人のどういうところに魅力を感じていたのだろう?きっと笑顔だろう。けれども、もうその笑顔は、切り取られた瞬間が保存されているものを引き出す画面の上でしか見ることはできないだろう。なぜ時間を止める/逆らうことはできないのだろうと、クリスマスイブに別れた場所である新大阪に向かう途中で思っていた。もちろん、止まるはずはないけど。

ただ書き留めているだけれども、終着点はあるのだろうか?大阪、京都、神戸、東京、神奈川、ある程度縁のある土地には付き合っていた人と全て行ってしまった。私の実家近く、私のお気に入りの喫茶店、私が好きな眺めが良い場所、私の通っていた大学、そういったところにも付き合っていた人と行ってしまった。春、夏、秋、冬、全ての季節を付き合っていた人と過ごしてしまった。私はこれから、どこにいたら、いつにいたら付き合っていた人の幻を感じないだろうか?それはまだ私にも分からない。そもそもこれから幻を感じるかどうかもわからない。きっと感じるだろうけど。

そもそも、この話に終着点が必要なのだろうか?私は付き合っていた時、たしかに必要とされていた。もしかしたら今この瞬間も必要とされているのかもしれない。今の私に必要とされているかどうかを知る手段はないけど。

終着点は恐らくない。《契約》が終わっても、私と付き合っていた人は生きている限り、人生は終わらない。トートロジー。私は昨日自殺するべきだったのかもしれない。私は私がひどい振り方をした自覚もある。けれども、私はまだ自殺をしてはなく、私はまた遅かれ早かれ他の人と《契約》を結ぶのかもしれない。もちろん結ばずに孤独に生きるのかもしれないけど、そうなってしまった結果も全て私が選んだ選択の帰結で仕方ない。そう、世の中は仕方ないことだらけである。あの選択もこの選択もどの選択も仕方ない。仕方ない。仕方ない。仕方ないということと罪悪感を感じないということは別だけど。

私が付き合っていた人にできることはもうほとんど何もないだろう。会うこともないだろう。こんな文を書いても何の意味もない。もともと意味がある事象なんて何もないから、当たり前だけど。終わってしまった、そして終わらせてしまった。罪の意識はいつまで残っているのだろう。でも、罪の意識が消えてしまうことの方が怖い。

ただ、私ができる唯一の意味がない行為は付き合っていた人のこれからの人生に訪れる幸福を祈るのみである。

さようなら。私に付き合うという《コト》をきちんと教えてくれた人。

 

さようなら。