意味/死(後編)

(続き)

よく考えたら他の学問は以前書いたことがあるような気がしたので、ここでは違う例を。

では、幸せに生きることに対して意味を求めるのはどうでしょうか?

あらゆる感情は脳内における化学物質の生成や電気信号の伝達に過ぎないというのが現代の常識(この常識がパラダイムシフトで変わる可能性も否めないが、ここでは考慮しない)となっており、その帰結はあらゆる悲しみも喜びも幸せも楽しみも怒りも全ては食塩、塩化ナトリウムとよく似たものです。言い換えれば、頭の中で食塩のようなものができてそれに反応してることが人生の意味だと受け入れることがどの程度いるか気になるところです。(と同時に、恋愛至上主義者の墓場ができることを願ってやまないこの頃です。)

では、自分の好きなものを集めるといったある種のコレクションに意味を求めてみるのはどうでしょうか?

ここでは「消費社会の神話と構造」の一節を引用します。

「つまり、浪費は常に一種の狂気、錯乱、本能の機能障害とみなされている。人間に貯えを費やさせ、非合理的行動によって生存条件を危うくさせる、そんな狂気というわけだ。

こうした考えからは、少なくとも次の事実が図らずも明らかになる。われわれが真に豊かな時代にいるのではなくて、現代に生きる個人や集団や社会や種としての人類そのものが稀少性の記号のもとにおかれているという事実である。」

詳細が気になる方は、上記の本を読んでほしいです。

では、美しさのようなものに意味を求めてみるのはどうでしょうか?

私の場合は詰まる所、ここに意味を求めるのしかないのかなと考えています。

美しさに意味を求めるとは言い換えると、私たちが全能ではなく、身体を有して永遠を生きることができない、という事実から生まれる不可能性に神秘性を感じ、その神秘性を信仰するということです。

しかし、これもまた幻想なのでしょう......

所詮はその美しさを感じるのも感情の一つに過ぎないのですから。

私なりの結論で言うと、意味なんてものは私たちの幻想に過ぎません。しかし、その幻想を信じることができる領域、個人によって神秘性を感じることができる領域は異なります。だから、すくなくとも狭義の私たちは神秘性を感じる領域を探すしかないのです。そして、神秘性を感じるものがあるならば、その神秘性のベールを剥がしてはいけないのです。そして、その幻想を生み出してくれる日常を愛し、またその幻想を生み出してくれる日常に愛されないといけない、すなわち幻想を生み出してくれる環境に身を置かないといけないのです。

そして、私がよく死にたくなる理由は現在を含めた今後、おそらくそういった環境に身を置くことができないからです。あまりに私が感受できる幻想の数が少なくなり、その数少ない幻想にはお金と時間が必要で、私のような富豪でないものにとってはその2つは極めてトレードオフの関係が成り立っているからです。もっと早くこのことに気づけば。富豪のように生きられれば。もっと勉学や芸術に対して自覚的になることができるほどの才能があれば。そう悔やんでも仕方のないことですが、もし神がいるなら意地悪だなと思います。いや、きっと神ならこういったコメディを楽しむのでしょうか?

愛する日常を渇望しつつ、愛されない日常で生きる私はもはやすでに死んでいるに等しく、生きることから生じる苦しみの量が死ぬ過程に生じる苦しみの量に勝る時、私は自殺するのだと思います。

どうかこの文章を読んでくださった人は、日常を愛し、そして愛されてください。