人はどうして恋をするのだろうか?2

やあやあ、久しぶり。とは言っても、半年ぶりくらいなのだろうか?割と長めの自分の思想が入り混じったようなブログの記事を書いたことがある人はひょっとしたらわかるかもしれないけれども、半年もあったら過去の自分が書いたブログってどことなく他人が書いたもののように感じるんだよね。例えば、「小説における文学的な美について」という記事は朝シャワーに入ってる時、突然書きたくなって1時間くらいかけて書いてたような気もしないではないし、なんとなくぼんやり覚えているけど、その書く際の思考回路の再現性がないから、自分が書いたというリアリティがないのだろうか?でも、どことなく理解することもできたし、”他者”と呼ぶには遠すぎるから、”親戚”くらいにしておこう。振り返れば、この半年何かあったようだし、何もなかったようだ。

話が逸れてしまった。懐かしさからか?さて、タイトルを見たらわかるように「人はどうして恋をするのだろうか?1(以降、人恋1と記す)」とナンバリングをつけておきながら、それを放っておく(しかも確認してみたら最後に「人が「恋」をするということに対して、違うアプローチを取りたい。」とか書いてるぞ、過去の自分気持ち悪いな、今もか)のは些か気持ち悪いということで、すこし記しておこうと思う。人恋1では子孫繁栄のトリガー的なことを書いていたと思う。でも、言われて思わないか?そんなこと、つまりは子孫繁栄なんて関係ねーよ、と。少なくとも、私はそう思う。別に人類が繁栄しなくてもいいし、なんなら滅んでも、もっと言うと滅んだ方がいいと思っている。あまり多くは記さないけど、この社会というシステムの上で過ごしている以上、社会というシステム自体に恨みを抱いたことは大抵の人があると思われるのと同じで、僕もあるからだ。また話が逸れそうだから、話を戻そう。きっと話が逸れるのは懐かしさから生まれたものではなく、私という個人の性質だな。

「人はどうして恋をするのだろうか?」私の中では一つ結論が出ている。それは、日常を愛するためだと思っている。あくまで、そうあくまで個人的だけど。表現を変えるなら、生きやすくするため、とかかな。このブログを読んでいる君はどこまで死に近づいたことがあるだろうか?ちなみに私の最接近記録は部屋の中のカーテンロールの紐を括って、その括られた自殺するための紐をただぼんやりと楕円として眺めていたときな気がしないではない。世界の本質的な意味の無さ、記号を交換する以上の意味がない馬鹿げた社会、その記号を交換する場では評価され無さそうな自分、家族以外のコミュニティから外れたことによる自分でも認知できない疎外感や宙ぶらりん感......etc。きっと私はそういったいろんなことに疲れていた。(し、きっと今もそういったことに疲れている。)そんな私のように躓いた人間にとっては(この程度で躓いたとは言えないという声も聞こえてきそうだが)、生きるということは死ぬことを延長するといった意味合いも含むようになってくる。その延長の方法の一つが恋愛だと、私はそう思う。他者は私と異なる論理空間を有していて、それを共有するのは不可能で、だからこそ、その他者という神秘性を尊重しようとする姿勢という倫理観は美しい、というのが私にとっての死を延長する方法になりうる理由だと思うのだが、抽象的でわかりにくいな。まぁ、いいや。もちろん三秋縋が描くようなある種死に向かっていく二人きりの世界を作るという恋愛観も嫌いではないけど。もっと言えば、どちらかというとそっちの方が好きかもしれないけれども。でも、私は私が生きるために。また、相手が生きるために。今日も恋をしたいと思う。

 とは言っても、これもまた一つの観点に過ぎないのだろうが。