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ラベリング。labeling。

最初に書いておきますが、誰かを批判しようという意思はありません。

最近Twitterを見ていると、恋人が欲しいという表現を変えたい、とか恋人という関係性では表現しきれないのにその言葉に押し込めるのは嫌だという意見をチラチラ見受ける。別にその人が間違っているとか間違っていないとかはないとは思うけど、どうしてもその意見が僕の肌に合わなかったから、ここに記そうと思う。

私は、人が人を見る時、3つの視点があるように思う。ミクロの視点から、相手を一つの個体として見る場合、セミマクロの視点から、相手を関係の一つとして捉える場合、マクロの視点から、相手を所属団体、群の構成員として捉える場合。

恋人という関係に当てはまるのがこの分類で言うセミマクロの視点から見るということな気がする。だから、前述の人たちは換言すると、大事な人(もしくはこれから大事になる人)をセミマクロの視点で見たくないということだろう。推測するに、マクロの視点でも見たくないのではないのではないだろうか?

しかし、少し待って欲しい。

関係性に仮の名前を与えるのがそんなによくないことなのだろうか?自分たちだけを特別視していないだろうか?私達の関係を恋人に当てはめるなんてできないよ、なんていうセリフは世の中に溢れているじゃないか。そのセリフを言う人たちが私達の関係性は私達の関係は「恋人x」だね、と定義づけるとしたら、世間の「恋人」たちは「恋人x」に負けるのが嫌で、「恋人x」とか「恋人y」とかになろうとするのかな?笑。ああ、陳腐陳腐。

人という個人としての存在は関係や群からもフィードバックを受けていて、個人だけでは成り立っていないのに、ミクロの視点だけでその人を見ることができるのか?たとえば私の場合、大学に所属していることも友人という関係を持った人がいるのも生活に影響を与えていて、生活に影響を与えているということは個人の形成に関わっているとも関係しているのではないかな?ああ、仕事と私どっちが大事とか聞く人と同じ気持ち悪さがあるな。

そもそも、ミクロの視点できちんと見ているのか?わざわざラベリングにこだわる時点で、なんだか見ていないような気がする。相手をミクロとして見ている「自分」を演出したいだけなのではないか?人間だれもが「自分」を演出しているとは思うけど、世間とちょっと違うこと言って差別化図るということ自体が普通の域を抜け出してないと思ってしまう。

結論を言うと、そういったことを言う人はその意見を言う、ミクロで見ようとする「自分」が好きなだけなんじゃない?どうしても幼く感じる。

まぁ、そういう人もいてほしいけど。多様性すごいね。