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小説における文学的な美について

  以前から私は一般的に暗いとされる小説が好きである(だが、明るい小説もたまに読みたくなるので、悪しからず)。例えば、最近読んだ本ならば、谷崎潤一郎の「痴人の愛」であったり、中村文則の「遮光」であったり。今読んでいるのはドストエフスキーの「罪と罰」であり、今350P程度読んでいたはずだが、これもとても好きな小説になりそうな予感がしている。ジッドの「狭き門」もとてもよかった。たぶん今挙げた小説はどれも暗いと感じる人が多いのではないだろうか。では、一般的に暗いとされる小説とはどのようなものだろうか?ここで二種類の仮説が立てられる。一つが登場人物の性格が暗いという暗さ。もう一つが終わり方(エンディング)が暗いという暗さ。一般的には前者を指しているような気がする。ただ、これは人によって意見が分かれると思う。三秋縋の「僕が電話をかけていた場所」「君が電話をかけていた場所」(前者が上巻であり、後者が下巻)は一つ目の暗さがあって、二つ目の暗さがないように思われる。とりあえず暗さの定義はひとまずこの程度にしておく。ならば、この二つの暗さの仮説のどちらもを内包する、つまり、登場人物の性格も暗く、エンディングも暗い小説は間違いなく暗いように思われる。しかし、私はそのような小説にこそたまらなく美を感じるときが多い。

  ここで、私にとっての小説における文学的な美の結論を言おうと思う。それは、「堕落」である。「堕落」にこそ美は存在していると思われる。では、ここにおける「堕落」とはなんだろうか?「堕落」には坂口安吾の「堕落論」があるように、いろんな「堕落」があるように思う。しかし、ここで私は「堕落」は「一般的には想定しにくい行動に至ること」と定義したい。別に、その具体的行動はどんなことでもよくて、殺人や精神障害を疑われるような状態、論理的には正しくないこと、自殺......なんだっていい。では、なぜ私はそのような行動、もしくはその行動の周辺に美を感じるのだろうか。それはその堕落を引き起こすようなことにこそ生の本質があるように思うからだ。例えば、恋愛から生まれる感情や憎しみという感情、信仰から生まれる感情、お金から生まれる感情、尊敬から生まれる感情......。人は一般的に「堕落」せずに生きようとする生き物だと思われる。嘘だと思うなら、是非新宿駅や渋谷駅、大阪駅で君が代を歌ってみてほしい。そして、私はそれを眺めてみたい(ちなみに、私は大阪駅で歌ったことがある)。「堕落」するにはそれなりの動機が必要である。それなりの動機となれば必然的に強い動機となる必要がある。強い動機とは、おそらくその人の本質、言い換えると生の本質に近いものではないだろうか。その生の本質が垣間見えたとき、僕はどうしようもなく、美しさを感じる。現実で生の本質が見えるなんてことはほとんどない。周りを見渡してほしい。「堕落」している人間がどれほどいるか。「堕落」するほどの動機や経験を持って生きている人間がどれほどいるか。一方、虚構では、私が好きな小説では(おそらく著者自身が堕落する体験や堕落する想像を働かせているからだろうが、)「堕落」するための動機や経験が人物にあって、「堕落」をきちんと最後まで描くことによって、より生の本質を読者に感じさせてくれるように思う。そう、私は生の本質を感じたい、そして、実存を感じたいのだ......

  あくまでここからも個人的な意見だというのを踏まえてもらいたいのだが、最近の小説にはそこまで「堕落」している小説が少ないように思う。例えるならコカコーラのような後味である。もちろん小説を生業としている人は、そちらの方が一般受けして、売り上げも伸びるだろうから、そういう小説が多くなるのは構造として致し方ないことではあると思う。だが、少なくとも私にとって人生において本当に必要なのはコカコーラではなく、胃もたれするような濃厚なケーキだと思う。中村文則さん好き......しばらくは昔の小説をメインで読みそうだなぁ。

  ここまで読んでくださった人は本当にこんな冗長な文に付き合ってくれてありがとうございました。もし、貴方が胃もたれするような濃厚なケーキを知っているときは、是非Twitterにて教えてください。

ちなみにここで挙げた「痴人の愛」「遮光」「狭き門」は、既に短い感想をTwitterにて呟いているので、気になる方は「痴人の愛  はりねずみ」のように検索してみてください。しばらくしたら「罪と罰」も感想を呟くと思います。