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宗教なき私たちに関する空想(又の名を仮説)

「宗教を生み出す本能」を読んだけれども、これは宗教が人類の進化と歴史に及ぼした影響の解説本。太古では、集団が宗教を信仰することによる優位性から群選択(自然淘汰が個人レベルではなく集団レベルでも起きること)が起きていて、その遺伝子が私たちにも受け継がれているというのがこの本のメインな気がする。ユダヤ教キリスト教イスラム教の起源とか、宗教は教典が重要視されているがそれにも変遷があるとか射程範囲が広い本だった。

では、筆者の仮説が正しければ、われわれ日本人にも宗教を信仰する器官が存在するのではないだろうか?では、そもそも宗教がどういうものかを語らなければならないかもしれない。私はこの本を読むまで、宗教に対して絶対的な教典があるようなイメージがあったが、どうやらそうではないようだ。結果として残ったメジャーな宗教に原典があるだけで、宗教は集団の統一化、敵に対して敵対心を抱くことの正当化による生存競争における優位性の確保のための装置の一つであるように感じた。古代から存在するその装置の仕掛けは神という隔絶している存在を信じるということだったのだろう。そして、その宗教を信じる遺伝子があったおかげで、私たちはここにいるかもしれない。いやいや、はりねずみ。私たち日本人は無神論者の方が多いではないか、宗教の遺伝子とか言われても......と思う人は振り返ってみてほしい。われわれの75年程度前の祖先が天皇を現人神と見立てて祀っていたということを。75年程度前というと世代でいうと3回転しているかどうかくらいである。その時の遺伝子がいきなりほぼ全員が遺伝子浮動を引き起こしているとは考えにくく、私たちもやはり宗教の遺伝子を持っていると考えた方が自然である。

では、その宗教の遺伝子は何を信じるようになったのだろうか。私は2000年代に入るまでは「世間」であったように思う。高度経済成長期あたりでは、「世間(小規模で表すなら会社など)」という隔絶されたものを信じることで、集団が統一化されたのは間違いないように思われる。だが、この「世間」を今信じている人はどの程度いるのだろうか?私は以前に比べて少ないように思う。悲観的なニュースが流れ、インターネットにより情報が溢れ出てしまったことで、「世間」の神性はだいぶ弱まったように思う。では、私たちは何を信じればよいのだろうか?ここで私は個人に向かうように思う。個人個人が別々のものを信じ、ばらばらになっていく。そんな時代だからこそ、私たちは「本」を通じて、自分の行動指針を持たないといけないのかもしれない。という自己正当化。

小説における文学的な美について

  以前から私は一般的に暗いとされる小説が好きである(だが、明るい小説もたまに読みたくなるので、悪しからず)。例えば、最近読んだ本ならば、谷崎潤一郎の「痴人の愛」であったり、中村文則の「遮光」であったり。今読んでいるのはドストエフスキーの「罪と罰」であり、今350P程度読んでいたはずだが、これもとても好きな小説になりそうな予感がしている。ジッドの「狭き門」もとてもよかった。たぶん今挙げた小説はどれも暗いと感じる人が多いのではないだろうか。では、一般的に暗いとされる小説とはどのようなものだろうか?ここで二種類の仮説が立てられる。一つが登場人物の性格が暗いという暗さ。もう一つが終わり方(エンディング)が暗いという暗さ。一般的には前者を指しているような気がする。ただ、これは人によって意見が分かれると思う。三秋縋の「僕が電話をかけていた場所」「君が電話をかけていた場所」(前者が上巻であり、後者が下巻)は一つ目の暗さがあって、二つ目の暗さがないように思われる。とりあえず暗さの定義はひとまずこの程度にしておく。ならば、この二つの暗さの仮説のどちらもを内包する、つまり、登場人物の性格も暗く、エンディングも暗い小説は間違いなく暗いように思われる。しかし、私はそのような小説にこそたまらなく美を感じるときが多い。

  ここで、私にとっての小説における文学的な美の結論を言おうと思う。それは、「堕落」である。「堕落」にこそ美は存在していると思われる。では、ここにおける「堕落」とはなんだろうか?「堕落」には坂口安吾の「堕落論」があるように、いろんな「堕落」があるように思う。しかし、ここで私は「堕落」は「一般的には想定しにくい行動に至ること」と定義したい。別に、その具体的行動はどんなことでもよくて、殺人や精神障害を疑われるような状態、論理的には正しくないこと、自殺......なんだっていい。では、なぜ私はそのような行動、もしくはその行動の周辺に美を感じるのだろうか。それはその堕落を引き起こすようなことにこそ生の本質があるように思うからだ。例えば、恋愛から生まれる感情や憎しみという感情、信仰から生まれる感情、お金から生まれる感情、尊敬から生まれる感情......。人は一般的に「堕落」せずに生きようとする生き物だと思われる。嘘だと思うなら、是非新宿駅や渋谷駅、大阪駅で君が代を歌ってみてほしい。そして、私はそれを眺めてみたい(ちなみに、私は大阪駅で歌ったことがある)。「堕落」するにはそれなりの動機が必要である。それなりの動機となれば必然的に強い動機となる必要がある。強い動機とは、おそらくその人の本質、言い換えると生の本質に近いものではないだろうか。その生の本質が垣間見えたとき、僕はどうしようもなく、美しさを感じる。現実で生の本質が見えるなんてことはほとんどない。周りを見渡してほしい。「堕落」している人間がどれほどいるか。「堕落」するほどの動機や経験を持って生きている人間がどれほどいるか。一方、虚構では、私が好きな小説では(おそらく著者自身が堕落する体験や堕落する想像を働かせているからだろうが、)「堕落」するための動機や経験が人物にあって、「堕落」をきちんと最後まで描くことによって、より生の本質を読者に感じさせてくれるように思う。そう、私は生の本質を感じたい、そして、実存を感じたいのだ......

  あくまでここからも個人的な意見だというのを踏まえてもらいたいのだが、最近の小説にはそこまで「堕落」している小説が少ないように思う。例えるならコカコーラのような後味である。もちろん小説を生業としている人は、そちらの方が一般受けして、売り上げも伸びるだろうから、そういう小説が多くなるのは構造として致し方ないことではあると思う。だが、少なくとも私にとって人生において本当に必要なのはコカコーラではなく、胃もたれするような濃厚なケーキだと思う。中村文則さん好き......しばらくは昔の小説をメインで読みそうだなぁ。

  ここまで読んでくださった人は本当にこんな冗長な文に付き合ってくれてありがとうございました。もし、貴方が胃もたれするような濃厚なケーキを知っているときは、是非Twitterにて教えてください。

ちなみにここで挙げた「痴人の愛」「遮光」「狭き門」は、既に短い感想をTwitterにて呟いているので、気になる方は「痴人の愛  はりねずみ」のように検索してみてください。しばらくしたら「罪と罰」も感想を呟くと思います。

人はどうして恋をするのだろうか?1

そもそも「恋」とはどういうことだろうか?

私のこれに対する答えはわりところころ変わってしまう......

一番夢がないなーと自分で思う今までの自分の答えの一つは、子孫繁栄のきっかけ。

やっぱり私たちは生きている以上、生物の基本的な原則である子孫繁栄という目標を達成すべきなのだろう、という考えが私自身にあるのだが、もしこの社会で経済的に考えて自分たちに子供って本当に必要なの??という考えが世の中に蔓延してしまったら、子孫が繁栄しにくくなるだろう。そういう人の遺伝子が自然選択の一部として、人類の遺伝子から排除されていくシステムになっているのかもしれないけれども。でも、遺伝子の話ってほんとにナイーブだから、あまりここでは触れない(一つ付け加えると、子孫繁栄に疑問を持つということ自体が新しいブレイクスルーを生むかもしれないし、社会が上手く回るために倫理観などかあるのであって、実際に絶対に何が正しくて何が間違いとかは考え方としてないように思う。例としてカニバリズムの文化が存在したということを挙げたい。)

話がすこし横道に逸れてしまったが、子孫繁栄ではない目標が主流になったとしても、子孫繁栄という考えを残すために、子孫繁栄というトリガーとして「恋」があるのかな、と。

でも、それが答えだとしたらあまりに悲しくないですか?ということで、仮に「恋」をする理由が子孫繁栄のトリガーであったとしても、そうではない理由を探さないとやっていけない私は、生きる理由と同様に、「恋」をしてもいいんだと思うためにも人が「恋」をするということに対して、違うアプローチを取りたい。