この世とあの世について

さてさてひょんなこと(単なる気まぐれ)で始めたブログのお題集めにたいするあくまで私なりの下手くそな返答です

これをお読みの人は、もし聞きたいことがあれば気軽に#ブログのお題募集中、のツイートか単なるリプで教えてね。ゆっくりだけど、時間があるとき今からのように答えたいと思っているよ!

この世とあの世に関しての質問ということは、この世とあの世の対比を出すということから考えて私のあの世に対する考えを答えれば良いと思うのだけれども、端的に言えばあの世は基本的に信じてないです。でも、昨日御墓参り(みなさん彼岸ですよ!)にも行ったし......意外と難しい。そもそも、結構な割合の人がなぜあの世を信じるのだろう?その理由としてほほーっと以前思ったのが「宗教を生み出す本能」にたしか詳しくは書いていたことなんだけど、まぁ宗教を信じた方が生存に有利だった時代が長く続いていたからだと思うんだよね。しゅうきょーさいこー。実際宗教が果たす役割って結構大きいと思う。(例えば、神様はあなたを見ていますみたいな文言をもしみんながみんな本当に信じるなら、すくなくとも殺人は犯しにくくなったり、善行を積もうみたいな発想にもなりやすいし、もしシャーマン的な立ち位置の人(もしくはシャーマンの発言を決めることができるような王のような人)が優れた人ならば、社会の運営もしやすくなる。みたいな。あと神が与えた身体を粗末にするなみたいなセリフは今でも使われてるよね。というような)宗教を信じる形質そのものが生存のキーになった結果、みんな宗教を信じやすいみたいな話だった気がする。太古と近世では宗教も違うよ!みたいなこととかも書いてたはずだし、結構面白かった。でも、このブログを書くにあたって原著の確認とかしてないから割と適当だし、もっときちんと知りたいみたいな人はさっきの本面白かったし読んでー😓(そもそもそういった文化的な形質が遺伝するのか?ということを信じるには群選択説を信じないといけないよな?とか思ったこともあったりなかったり)だから、みんな無神論者ーとか言いながらなにかしらの宗教めいたものを信じている人って結構多いと思うし、なんだかんだあの世があると信じてる人って結構多いと思う。

でも、宗教もビジネスの一つだ。お墓を作るのにも、死後の名前をつけるにも、お墓に供える花を買うにも(すごい暇なときに寺、墓地と花屋の近さ調べてみたいなぁ、たぶん調べないけど)、線香を買うにも......あの世を信じる人がいることでウハウハな人は結構いそう。私は幼少期宗教には一切触れてこなかったし、宗教で食ってる人にまさしくお布施はあまり払いたくないから、どちらかというと感情的には信じたくない。でも、あの世があるかどうかなんて死んでみないとわからないし、死んだところでわからないかもしれない。あの世という領域はいろいろセコイな。なんというかやっぱり誰も知らないことで神秘的なことを食い物にする人はある種の詐欺師のようなものに感じる。まぁ、「そもそもどこからを詐欺師と呼ぶの?問題」が発生するし、一旦置いておこう。

話を戻すと、だから、あの世に対しては何も想定することができない私は、昨日死んだおじいちゃんのお墓には手を添えて「もし、死後祖父が何かに連続しているならば、その連続したものが快の感情を得られますように」というお祈りをした。我ながらなかなか珍しいお祈りの仕方だと思う。まぁ、でもそもそもその御墓参りに行ったのだって家族の圧力があったからというのもあるし......

話が散らばってしまったけど、結論としては

『あの世を食い物にする輩のことがあまり好きではないからあの世とかなんやらには関わりたくはないけど、私自身も「宗教を生み出す本能」が備わっているからかどうかはわからないけど、あの世の存在を確かめる術はないから家族の圧力があった時のような場合はあの世の存在を一旦受け入れざるをえない。ただ、手を合わせてお祈りするという金銭の授受が発生しない行為はそこまで嫌なわけではない』

って感じかな?

ちなみにあの世の一番いい使い方は金の仏具を買うことで相続税対策をすることだと思ってるよ!!お金持ちのみんなは参考にしてね!!ついでに私を養って!!

人はどうして恋をするのだろうか?2

やあやあ、久しぶり。とは言っても、半年ぶりくらいなのだろうか?割と長めの自分の思想が入り混じったようなブログの記事を書いたことがある人はひょっとしたらわかるかもしれないけれども、半年もあったら過去の自分が書いたブログってどことなく他人が書いたもののように感じるんだよね。例えば、「小説における文学的な美について」という記事は朝シャワーに入ってる時、突然書きたくなって1時間くらいかけて書いてたような気もしないではないし、なんとなくぼんやり覚えているけど、その書く際の思考回路の再現性がないから、自分が書いたというリアリティがないのだろうか?でも、どことなく理解することもできたし、”他者”と呼ぶには遠すぎるから、”親戚”くらいにしておこう。振り返れば、この半年何かあったようだし、何もなかったようだ。

話が逸れてしまった。懐かしさからか?さて、タイトルを見たらわかるように「人はどうして恋をするのだろうか?1(以降、人恋1と記す)」とナンバリングをつけておきながら、それを放っておく(しかも確認してみたら最後に「人が「恋」をするということに対して、違うアプローチを取りたい。」とか書いてるぞ、過去の自分気持ち悪いな、今もか)のは些か気持ち悪いということで、すこし記しておこうと思う。人恋1では子孫繁栄のトリガー的なことを書いていたと思う。でも、言われて思わないか?そんなこと、つまりは子孫繁栄なんて関係ねーよ、と。少なくとも、私はそう思う。別に人類が繁栄しなくてもいいし、なんなら滅んでも、もっと言うと滅んだ方がいいと思っている。あまり多くは記さないけど、この社会というシステムの上で過ごしている以上、社会というシステム自体に恨みを抱いたことは大抵の人があると思われるのと同じで、僕もあるからだ。また話が逸れそうだから、話を戻そう。きっと話が逸れるのは懐かしさから生まれたものではなく、私という個人の性質だな。

「人はどうして恋をするのだろうか?」私の中では一つ結論が出ている。それは、日常を愛するためだと思っている。あくまで、そうあくまで個人的だけど。表現を変えるなら、生きやすくするため、とかかな。このブログを読んでいる君はどこまで死に近づいたことがあるだろうか?ちなみに私の最接近記録は部屋の中のカーテンロールの紐を括って、その括られた自殺するための紐をただぼんやりと楕円として眺めていたときな気がしないではない。世界の本質的な意味の無さ、記号を交換する以上の意味がない馬鹿げた社会、その記号を交換する場では評価され無さそうな自分、家族以外のコミュニティから外れたことによる自分でも認知できない疎外感や宙ぶらりん感......etc。きっと私はそういったいろんなことに疲れていた。(し、きっと今もそういったことに疲れている。)そんな私のように躓いた人間にとっては(この程度で躓いたとは言えないという声も聞こえてきそうだが)、生きるということは死ぬことを延長するといった意味合いも含むようになってくる。その延長の方法の一つが恋愛だと、私はそう思う。他者は私と異なる論理空間を有していて、それを共有するのは不可能で、だからこそ、その他者という神秘性を尊重しようとする姿勢という倫理観は美しい、というのが私にとっての死を延長する方法になりうる理由だと思うのだが、抽象的でわかりにくいな。まぁ、いいや。もちろん三秋縋が描くようなある種死に向かっていく二人きりの世界を作るという恋愛観も嫌いではないけど。もっと言えば、どちらかというとそっちの方が好きかもしれないけれども。でも、私は私が生きるために。また、相手が生きるために。今日も恋をしたいと思う。

 とは言っても、これもまた一つの観点に過ぎないのだろうが。

 

 

 

 

ラベリング。labeling。

最初に書いておきますが、誰かを批判しようという意思はありません。

最近Twitterを見ていると、恋人が欲しいという表現を変えたい、とか恋人という関係性では表現しきれないのにその言葉に押し込めるのは嫌だという意見をチラチラ見受ける。別にその人が間違っているとか間違っていないとかはないとは思うけど、どうしてもその意見が僕の肌に合わなかったから、ここに記そうと思う。

私は、人が人を見る時、3つの視点があるように思う。ミクロの視点から、相手を一つの個体として見る場合、セミマクロの視点から、相手を関係の一つとして捉える場合、マクロの視点から、相手を所属団体、群の構成員として捉える場合。

恋人という関係に当てはまるのがこの分類で言うセミマクロの視点から見るということな気がする。だから、前述の人たちは換言すると、大事な人(もしくはこれから大事になる人)をセミマクロの視点で見たくないということだろう。推測するに、マクロの視点でも見たくないのではないのではないだろうか?

しかし、少し待って欲しい。

関係性に仮の名前を与えるのがそんなによくないことなのだろうか?自分たちだけを特別視していないだろうか?私達の関係を恋人に当てはめるなんてできないよ、なんていうセリフは世の中に溢れているじゃないか。そのセリフを言う人たちが私達の関係性は私達の関係は「恋人x」だね、と定義づけるとしたら、世間の「恋人」たちは「恋人x」に負けるのが嫌で、「恋人x」とか「恋人y」とかになろうとするのかな?笑。ああ、陳腐陳腐。

人という個人としての存在は関係や群からもフィードバックを受けていて、個人だけでは成り立っていないのに、ミクロの視点だけでその人を見ることができるのか?たとえば私の場合、大学に所属していることも友人という関係を持った人がいるのも生活に影響を与えていて、生活に影響を与えているということは個人の形成に関わっているとも関係しているのではないかな?ああ、仕事と私どっちが大事とか聞く人と同じ気持ち悪さがあるな。

そもそも、ミクロの視点できちんと見ているのか?わざわざラベリングにこだわる時点で、なんだか見ていないような気がする。相手をミクロとして見ている「自分」を演出したいだけなのではないか?人間だれもが「自分」を演出しているとは思うけど、世間とちょっと違うこと言って差別化図るということ自体が普通の域を抜け出してないと思ってしまう。

結論を言うと、そういったことを言う人はその意見を言う、ミクロで見ようとする「自分」が好きなだけなんじゃない?どうしても幼く感じる。

まぁ、そういう人もいてほしいけど。多様性すごいね。

 

宗教なき私たちに関する空想(又の名を仮説)

「宗教を生み出す本能」を読んだけれども、これは宗教が人類の進化と歴史に及ぼした影響の解説本。太古では、集団が宗教を信仰することによる優位性から群選択(自然淘汰が個人レベルではなく集団レベルでも起きること)が起きていて、その遺伝子が私たちにも受け継がれているというのがこの本のメインな気がする。ユダヤ教キリスト教イスラム教の起源とか、宗教は教典が重要視されているがそれにも変遷があるとか射程範囲が広い本だった。

では、筆者の仮説が正しければ、われわれ日本人にも宗教を信仰する器官が存在するのではないだろうか?では、そもそも宗教がどういうものかを語らなければならないかもしれない。私はこの本を読むまで、宗教に対して絶対的な教典があるようなイメージがあったが、どうやらそうではないようだ。結果として残ったメジャーな宗教に原典があるだけで、宗教は集団の統一化、敵に対して敵対心を抱くことの正当化による生存競争における優位性の確保のための装置の一つであるように感じた。古代から存在するその装置の仕掛けは神という隔絶している存在を信じるということだったのだろう。そして、その宗教を信じる遺伝子があったおかげで、私たちはここにいるかもしれない。いやいや、はりねずみ。私たち日本人は無神論者の方が多いではないか、宗教の遺伝子とか言われても......と思う人は振り返ってみてほしい。われわれの75年程度前の祖先が天皇を現人神と見立てて祀っていたということを。75年程度前というと世代でいうと3回転しているかどうかくらいである。その時の遺伝子がいきなりほぼ全員が遺伝子浮動を引き起こしているとは考えにくく、私たちもやはり宗教の遺伝子を持っていると考えた方が自然である。

では、その宗教の遺伝子は何を信じるようになったのだろうか。私は2000年代に入るまでは「世間」であったように思う。高度経済成長期あたりでは、「世間(小規模で表すなら会社など)」という隔絶されたものを信じることで、集団が統一化されたのは間違いないように思われる。だが、この「世間」を今信じている人はどの程度いるのだろうか?私は以前に比べて少ないように思う。悲観的なニュースが流れ、インターネットにより情報が溢れ出てしまったことで、「世間」の神性はだいぶ弱まったように思う。では、私たちは何を信じればよいのだろうか?ここで私は個人に向かうように思う。個人個人が別々のものを信じ、ばらばらになっていく。そんな時代だからこそ、私たちは「本」を通じて、自分の行動指針を持たないといけないのかもしれない。という自己正当化。

小説における文学的な美について

  以前から私は一般的に暗いとされる小説が好きである(だが、明るい小説もたまに読みたくなるので、悪しからず)。例えば、最近読んだ本ならば、谷崎潤一郎の「痴人の愛」であったり、中村文則の「遮光」であったり。今読んでいるのはドストエフスキーの「罪と罰」であり、今350P程度読んでいたはずだが、これもとても好きな小説になりそうな予感がしている。ジッドの「狭き門」もとてもよかった。たぶん今挙げた小説はどれも暗いと感じる人が多いのではないだろうか。では、一般的に暗いとされる小説とはどのようなものだろうか?ここで二種類の仮説が立てられる。一つが登場人物の性格が暗いという暗さ。もう一つが終わり方(エンディング)が暗いという暗さ。一般的には前者を指しているような気がする。ただ、これは人によって意見が分かれると思う。三秋縋の「僕が電話をかけていた場所」「君が電話をかけていた場所」(前者が上巻であり、後者が下巻)は一つ目の暗さがあって、二つ目の暗さがないように思われる。とりあえず暗さの定義はひとまずこの程度にしておく。ならば、この二つの暗さの仮説のどちらもを内包する、つまり、登場人物の性格も暗く、エンディングも暗い小説は間違いなく暗いように思われる。しかし、私はそのような小説にこそたまらなく美を感じるときが多い。

  ここで、私にとっての小説における文学的な美の結論を言おうと思う。それは、「堕落」である。「堕落」にこそ美は存在していると思われる。では、ここにおける「堕落」とはなんだろうか?「堕落」には坂口安吾の「堕落論」があるように、いろんな「堕落」があるように思う。しかし、ここで私は「堕落」は「一般的には想定しにくい行動に至ること」と定義したい。別に、その具体的行動はどんなことでもよくて、殺人や精神障害を疑われるような状態、論理的には正しくないこと、自殺......なんだっていい。では、なぜ私はそのような行動、もしくはその行動の周辺に美を感じるのだろうか。それはその堕落を引き起こすようなことにこそ生の本質があるように思うからだ。例えば、恋愛から生まれる感情や憎しみという感情、信仰から生まれる感情、お金から生まれる感情、尊敬から生まれる感情......。人は一般的に「堕落」せずに生きようとする生き物だと思われる。嘘だと思うなら、是非新宿駅や渋谷駅、大阪駅で君が代を歌ってみてほしい。そして、私はそれを眺めてみたい(ちなみに、私は大阪駅で歌ったことがある)。「堕落」するにはそれなりの動機が必要である。それなりの動機となれば必然的に強い動機となる必要がある。強い動機とは、おそらくその人の本質、言い換えると生の本質に近いものではないだろうか。その生の本質が垣間見えたとき、僕はどうしようもなく、美しさを感じる。現実で生の本質が見えるなんてことはほとんどない。周りを見渡してほしい。「堕落」している人間がどれほどいるか。「堕落」するほどの動機や経験を持って生きている人間がどれほどいるか。一方、虚構では、私が好きな小説では(おそらく著者自身が堕落する体験や堕落する想像を働かせているからだろうが、)「堕落」するための動機や経験が人物にあって、「堕落」をきちんと最後まで描くことによって、より生の本質を読者に感じさせてくれるように思う。そう、私は生の本質を感じたい、そして、実存を感じたいのだ......

  あくまでここからも個人的な意見だというのを踏まえてもらいたいのだが、最近の小説にはそこまで「堕落」している小説が少ないように思う。例えるならコカコーラのような後味である。もちろん小説を生業としている人は、そちらの方が一般受けして、売り上げも伸びるだろうから、そういう小説が多くなるのは構造として致し方ないことではあると思う。だが、少なくとも私にとって人生において本当に必要なのはコカコーラではなく、胃もたれするような濃厚なケーキだと思う。中村文則さん好き......しばらくは昔の小説をメインで読みそうだなぁ。

  ここまで読んでくださった人は本当にこんな冗長な文に付き合ってくれてありがとうございました。もし、貴方が胃もたれするような濃厚なケーキを知っているときは、是非Twitterにて教えてください。

ちなみにここで挙げた「痴人の愛」「遮光」「狭き門」は、既に短い感想をTwitterにて呟いているので、気になる方は「痴人の愛  はりねずみ」のように検索してみてください。しばらくしたら「罪と罰」も感想を呟くと思います。

人はどうして恋をするのだろうか?1

そもそも「恋」とはどういうことだろうか?

私のこれに対する答えはわりところころ変わってしまう......

一番夢がないなーと自分で思う今までの自分の答えの一つは、子孫繁栄のきっかけ。

やっぱり私たちは生きている以上、生物の基本的な原則である子孫繁栄という目標を達成すべきなのだろう、という考えが私自身にあるのだが、もしこの社会で経済的に考えて自分たちに子供って本当に必要なの??という考えが世の中に蔓延してしまったら、子孫が繁栄しにくくなるだろう。そういう人の遺伝子が自然選択の一部として、人類の遺伝子から排除されていくシステムになっているのかもしれないけれども。でも、遺伝子の話ってほんとにナイーブだから、あまりここでは触れない(一つ付け加えると、子孫繁栄に疑問を持つということ自体が新しいブレイクスルーを生むかもしれないし、社会が上手く回るために倫理観などかあるのであって、実際に絶対に何が正しくて何が間違いとかは考え方としてないように思う。例としてカニバリズムの文化が存在したということを挙げたい。)

話がすこし横道に逸れてしまったが、子孫繁栄ではない目標が主流になったとしても、子孫繁栄という考えを残すために、子孫繁栄というトリガーとして「恋」があるのかな、と。

でも、それが答えだとしたらあまりに悲しくないですか?ということで、仮に「恋」をする理由が子孫繁栄のトリガーであったとしても、そうではない理由を探さないとやっていけない私は、生きる理由と同様に、「恋」をしてもいいんだと思うためにも人が「恋」をするということに対して、違うアプローチを取りたい。