村上春樹の面白さについて問われた私の返信(1)

『【文学】
文学(ぶんがく)とは、言語表現による芸術作品のこと。文芸ともいう。』

 

友人に村上春樹の面白さを尋ねられた。村上春樹の作品を「風の歌を聴け」しか読んでいない(しかも読んだのも一年以上前である)私は、お茶を濁すしかなかった。たしかモチーフが好んで用いられていたことはぼんやりと思い出せる。だが、それ以上でもそれ以下でもない(それ以上でもそれ以下でもないという表現はもし語義通り考えるならば虚無である)。村上春樹の作品を読むのが面倒だと感じてしまう私は、そもそも村上春樹以前の問題を考えることにした。そもそも文学の面白さとはどういうものか、である(村上春樹を文学という文脈で楽しむならば、という条件付きではあるが)。文学は何を持って文学となるのだろう。インターネットで調べてみると、上記のような返答が返ってきた。どうやら、芸術作品のジャンルのうち言語に関わるものを一般に示すようだ。それが真であるならば、芸術とは何かを考えなくてはならない。

 

『【芸術】
文芸・絵画・彫刻・音楽・演劇など、独得の表現様式によって美を創作・表現する活動。また、その作品。』

 

同様のステップを踏む。

 

『【美】
知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの。『快』が生理的・個人的・偶然的・主観的であるのに対して、『美』は個人的利害関心から一応解放され、より普遍的・必然的・客観的・社会的である。』

 

もし、以上の引用した記述が真であるとすれば、美とはより普遍的・必然的・客観的・社会的な内的快感をひきおこすものであり、それを表現しようとする芸術の一形態であるものが文学である。ならば、読者である友人が快いとは感じなかった時点で、友人にとっては既に文学という文脈では楽しめないのだろうか。
(Just kidding)

(続くかもしれないし続かないかもしれない)

生の意味

生に意味などない。生の意味は生の後に生まれる妄想にすぎない。だが、私たち(少なくとも私にとって)は生に意味を見出さなければ生きていくのが難しい。その方法は一つしかない。意味を見出し続けないということ、すなわち知ってはいるがわかっていない意味があるかもしれない事象に取り組むということだ。もちろんそこに意味などないが。中心をあえて不在にする、周辺にいることでしか私たちは生きることができない。中心はそもそも不在なのだから。その意味では生存は逃走なのだろう。

今の私に逃走ができているだろうか、逃走の仕方が下手なのではないだろうか、少し自信がない。ほら、立ち止まれば、不在の中心と目が合うぞ。