恋とか愛とかそういった曖昧なものに対する覚え書きに関するモノローグ

どうも、前回は7/29ですね。

約一ヶ月ぶりですが、モノローグしていこうと思います。

私たちはどういった恋愛小説に惹かれるでしょうか。私は三秋縋のように閉じた2人の関係の恋愛に関する小説が好きですが(思えば「狭き門」もそうでしたか?でも、読み終わってから2,3年経って忘れてしまいました)、一般的に恋愛小説は対象が多いような気がします(特に漫画は、と書こうとしましたが「私の少年」も思えば閉じた2人の関係でしょうか?)。最近、いろんなことから遠ざかっているからか“思えば”という言葉が多いですね。ボヴァリー夫人感情教育なども気になってはいるのですが、やはり積んでいます。

でも、そもそも恋愛小説であるか恋愛小説ではないかの境界はなかなか曖昧であるような気がします。もちろん、明らかに恋愛の「れ」もないような小説も多数存在するのですが、森博嗣のS&Mシリーズのように恋愛が微かに見える気がする小説もありますね。よく考えたら、私がこうやったしょうもないブログに書くよりロランバルトの著書に恋愛に関する本があったので、それを読む方がいいのかもしれませんね。金欠のため難しい気もするし、それを買うなら今は明るい部屋を購入したいですが。

同様に、私たちは恋人なのか友人なのかという境界もなかなか曖昧であるような気がします。私は詰まる所、この境界(恋愛における本質的なこと)に関して、私たちは誰一人として理解していないのではないか、と思います。そもそも、恋愛において本質的なことなんてどこにもなくて、むしろ事象が先にあるのかもしれません(どこかで聞いたことがあるフレーズですね)。

ただ、恋愛における本質的なことをおそらく理解していない私にも言えそうなことが2つあります。(コンサルタント志望ならば、ここは無理にでも3つにしたのでしょうか?)

1つ目はコードが恋愛かどうかを規定し得るものである可能性があるということです。例えば、自己の年齢であったり、自己の年収であったり、自己の外見であったり、自己の過去の記憶であったり、そういった自己の変化し得るコードが理想を規定するということです。そして、恋愛対象もコードが存在していて、それらのコードは常に変化します。結構なカップルはコードが変化した結果、別れるのかもしれませんね(付き合い始める前から別れることを前提にしていたことがあるので、一概には言えませんが)。

2つ目は恋愛という形式が絶対的なものではなく、相対的なものであるということです。運命の相手がいるわけではなく、置かれた現状で比較して相手を選ぼうとしているということです。そう考えれば、恋愛における本質的なことがないのは必然なのかもしれません。市場の価格決定を思い出してしまいますが、案外的を得ているのかもしれませんね。ただ、あまり恋愛工学のコンセプトが好きにはなれないので、それらに関する書籍を読んだことはないのですが。

図らずも書きながら3つ目が生まれたので書きますが、"付き合う"、"結婚する"といった契約だけが、私たちの恋愛を相対的なものから絶対的なものに変えようとするのかもしれませんね。契約を結ぶという段階は相対的であり、またこうありたいという理想がある限り、また現状と比較して相対化するのでしょうが。

私は恋愛において相対化が起こると、別れる可能性が増すと思っているので、もしこの仮定が正しくて、ある人が付き合っている人と別れたくないならば、いかに相対化を避けるか、言い換えると競合相手を作ろうとせず、理想に想いを馳せすぎず、身近なところに恋愛というものを置くことが重要なのかもしれませんね。

 

私が勉強してきたこと及びちょっとしたブックガイド

もしここに載っていることで気になることがあれば、話しかけていただいたらありがたいです。

 

株式投資

大学に入りたての頃にお金がこういう風にして回っているんだなと感動した覚えがあります。

参考図書

敗者のゲーム

株式投資の未来

ウォール街のランダムウォーカー

その中でも特に暴落という現象が好きでずっと暴落について考えていた頃もあった気がします。歴史は繰り返すのかなと感じました。

参考図書

12大事件で読む現代金融入門

不安定化する国際金融システム

【経営】

徐々に経営自体に興味を持ち始めましたが、今振り返ったらそこまで僕には興味がなかったかもしれません。

参考図書

新・企業価値評価

経営戦略(出版社ファーストプレス)

(各社の社史のようなもの(exP&Gウェイ))

【哲学】

なぜか大学二年あたりからすこし興味を持ちました。個人的にはまとまった時間が必要だと思います。次まとまった時間ができたらフーコーを読みたいですね、いつになるやら。

参考図書

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考」を読む

消費社会の神話と構造

存在論的、郵便的(精神分析は飛ばした)

(ゲンロン0)

【文学】

なぜか哲学に寄ってからすこしずつ趣味で始めたけど、哲学もそうですけど学問というより趣味に近い感じなんで、こう勉強しましたとか特にないです。とりあえずまとまった時間ができたら柄谷行人の文学批評3冊くらい読みたいですね。柄谷行人途中までしか読んでないですが、とても好きでした。

参考図書

私学的、あまりに私学的な(7割くらい)

日本近代文学の起源(5割くらい)

異邦人

闘争領域の拡大

痴人の愛

罪と罰

肉体の悪魔

狭き門

【プログラミング】【数学】

初歩の初歩だけ知っている状態、もうすこし深めたいです。代数学に詳しい人いたら独学でできる本、勉強した道筋など教えてもらえたら幸いです。

量子力学

初歩を知っているくらい、なかなか面白かったしもうすこししたいんですけど、人生の残された時間的にできるかどうかはかなり怪しいですね。

【生物学】

免疫学の本をとりあえず買いました。今年使ってだらだら読みそう。

 

 

 

 

恋とか愛とかそういった曖昧なものに関する覚え書きのプロローグ

おはようございます、あるいはこんにちは、あるいはこんばんは。みなさんの心のはりねずみことはりねずみです。こんばんは。最近ハリネズミさんにフォローされてみなさんの心のはりねずみがひょっとして自分以外にもいるんじゃなかろうか?なんていう余計な心配をしています。余計ですね。

 

はりねずみよ、もっと恋とか愛とかそう言った曖昧なもの以外に書くことはないのか?と思われそうですが、ないです。株式投資の勉強からは離れたし、文学も読んでるには読んでるけどっていう感じだし、哲学は最近読めてないし、数学は買うだけ買ってできてないし、量子力学はやるにはやったけど語ることはないし。みたいな感じですね。あと映画も最近観てないです。Quality of Yearが低そうな毎日を過ごしています。それなりに忙しいです。去年もそれなりにやってたはずだけど、今年はなんというか本当に物理的に空きが少ない。

 

さてそろそろ恋とか愛とかについて話せよ!と思われそうで怖いですね。昨日たまたま目にしたブログで「語りえぬものに対し沈黙するのが哲学者ならば、語りえぬものに対し全力であることないこと断言決めるのがブロガーだ!」と書いてましたが、はりねずみはいわゆるプロのブロガーでもなく、PV数を気にしているわけでもないので、脱線しながらまとまりなく続けていこうと思います。

 

私はいわゆる恋愛の達人的somethingではありません(最近のマイ流行語な「○○的something」なんですが流行らないですか?流行らないですよね、わかります。)ほどほどに付き合って、ほどほどに続いて、ほどほどに別れてを数回繰り返したあと今に至ります。でも、いわゆる取っ替え引っ替えのように恋愛をする人が達人とは私は思っていない(むしろ恋愛下手?なのかなと思っています、あと恋愛ブロガーとか恋愛コンサルタントみたいに自分で語るのはダサい気がしますが、まぁ感情論でしょうか?)ので、どういった人が恋愛の達人なのでしょうか?そう考えたら、恋愛の達人は人生の最後にこの人と結婚できてよかったなって思うようなお爺さんが一番当てはまりそうですが、まぁ年齢的にもお爺さんに聞くわけにもいかないので、はりねずみにとっての恋とか愛とかを語っていきます。

 

と思いましたが、眠っちゃったので、やめておきます。

 

好きな人の好きなところ

その人と初めて話したとき、その人のことを好きになる予感はしていた。

それからおよそ半年経って、そのときの自分でも想像できないほど好きになっていた。

その半年間に、その人がきっかけで付き合っていた人と別れたり、個人的に苦しいことがあったり、いろいろしんどかったように思う。とは言え、そのことももう三ヶ月以上前なので、ほぼ覚えていないのだが。見栄を張った、覚えている。

今回好きな人の好きなところをこうして書こうと思ったのは、経験上好きな人の好きなところは好きでいられるときに書かなければ解像度が落ちてしまう気がしたからだ。来週告白をする。たぶん。

この人と付き合えなかったら、どうなるんだろうな。そう考えると気持ちが暗くなる。だから、普段は考えないようにしている。毎日電話する習慣が失われたら生きにくくなりそう。まぁ、そんなこと知らないけど。

正直、すこし告白したくない。でも、きっと今告白して振られたなら、それはn年後に告白しても変わらなさそうだからしようと思う。もしn年後に告白したらうまくいったなら、そのときの自分、ごめん。でも、そんなこと知らない。

内面に惹かれるというのは、とても恐ろしい。本当に恐ろしい。

私は「どうでもいい話なんだけど、」と言ってから本当にどうでもいい話をするのだけれども、そのどうでもいい話をどうでもいいなぁって思われながら楽しそうに聞いてもらってるのが好き。

その人に告白をしてうまくいかなかったときにきっと連絡を取らなくなるようになるところも好き。

その人に最近学んだことを話して楽しそうに聞いてもらえるのが好き。でも、どうして楽しんで聞いてくれるのかが不思議で聞いてみたけど、どうしてみんなそうじゃないの?って逆に聞き返されて、みんなこういう人だったらいいのにな、と思いつつ、まぁ一人でもいるならそれでもいいかなと思った。

その人に弱いところを見せられるところも好き。未だに自分の弱いところはあまり好きにはならない。

時折寂しそうな感じが滲み出ていたのも好き。でも、今はもうそこまで寂しそうな感じが以前ほど滲み出てなくて、それにすこしでも貢献できてたなら嬉しいなと思う。と同時に付き合わなかったら、すこし苦しんでほしいと思う我儘な自分でごめんなさい。

関わる人に優しいところも好き。きつい人が好きなのかなって自分自身では思ってたけど、親の好きなところと同じところをやっぱり好きになるのだなと思った。

時々意地悪なところも好き。私もどうやら同じくらい意地悪なことをしてると指摘されて笑ってしまった。

好きなことを好きだと言えるところが好き。素直に尊敬しています。

好きってこの文章だけで何回打っているのだろう。

そんなこと知らない。

そもそも好きってどういうことだろう。

そんなこと知らない。

再来週どうなっているだろう。

そんなこと知らない。

来週うまくいってますように。

きっとこれが......

 

付き合うという契約が終わる時

付き合うというのは海外の事情は知らないけれども、日本の場合は《契約》に近いものだと思う。

もし、そうだとするならば、私は1つの《契約》をクリスマスイブに終わらせた。なにもクリスマスイブじゃなくてもいいのに。振った方である私でさえ、そう思った。クリスマスというイベントに相手に合わせることはあってもそこまで意味を感じない私も一応クリスマスを意識するのか?と思ったが、どちらかというと付き合っていた人のことを考えて申し訳なくなった、という方が正しいような気もする。

話が脱線してしまった。そもそも私と付き合っていた人には《ズレ》がいくつかあった。学生もどきと社会人。インドアとアウトドア。イベント嫌いとイベント好き。読書好きと読書しない。映画好きとハッピーエンド以外の映画嫌い。関西と関東。ネガティヴとポジティブ。けれども、そもそも他の人と《ズレ》がない人はいないわけで、契約が終わった理由にはなり得ないだろう。ただ、関西と関東という身体的距離が遠かったのは理由になるかもしれない。しかし、その原因も私にあったけど。

話が脱線してしまった。いや、そもそも話したいことなんて何もなくて、ただ書き留めているように書いているのだけれども。私が付き合っていた人のどういうところに魅力を感じていたのだろう?きっと笑顔だろう。けれども、もうその笑顔は、切り取られた瞬間が保存されているものを引き出す画面の上でしか見ることはできないだろう。なぜ時間を止める/逆らうことはできないのだろうと、クリスマスイブに別れた場所である新大阪に向かう途中で思っていた。もちろん、止まるはずはないけど。

ただ書き留めているだけれども、終着点はあるのだろうか?大阪、京都、神戸、東京、神奈川、ある程度縁のある土地には付き合っていた人と全て行ってしまった。私の実家近く、私のお気に入りの喫茶店、私が好きな眺めが良い場所、私の通っていた大学、そういったところにも付き合っていた人と行ってしまった。春、夏、秋、冬、全ての季節を付き合っていた人と過ごしてしまった。私はこれから、どこにいたら、いつにいたら付き合っていた人の幻を感じないだろうか?それはまだ私にも分からない。そもそもこれから幻を感じるかどうかもわからない。きっと感じるだろうけど。

そもそも、この話に終着点が必要なのだろうか?私は付き合っていた時、たしかに必要とされていた。もしかしたら今この瞬間も必要とされているのかもしれない。今の私に必要とされているかどうかを知る手段はないけど。

終着点は恐らくない。《契約》が終わっても、私と付き合っていた人は生きている限り、人生は終わらない。トートロジー。私は昨日自殺するべきだったのかもしれない。私は私がひどい振り方をした自覚もある。けれども、私はまだ自殺をしてはなく、私はまた遅かれ早かれ他の人と《契約》を結ぶのかもしれない。もちろん結ばずに孤独に生きるのかもしれないけど、そうなってしまった結果も全て私が選んだ選択の帰結で仕方ない。そう、世の中は仕方ないことだらけである。あの選択もこの選択もどの選択も仕方ない。仕方ない。仕方ない。仕方ないということと罪悪感を感じないということは別だけど。

私が付き合っていた人にできることはもうほとんど何もないだろう。会うこともないだろう。こんな文を書いても何の意味もない。もともと意味がある事象なんて何もないから、当たり前だけど。終わってしまった、そして終わらせてしまった。罪の意識はいつまで残っているのだろう。でも、罪の意識が消えてしまうことの方が怖い。

ただ、私ができる唯一の意味がない行為は付き合っていた人のこれからの人生に訪れる幸福を祈るのみである。

さようなら。私に付き合うという《コト》をきちんと教えてくれた人。

 

さようなら。

 

 

意味/死(後編)

(続き)

よく考えたら他の学問は以前書いたことがあるような気がしたので、ここでは違う例を。

では、幸せに生きることに対して意味を求めるのはどうでしょうか?

あらゆる感情は脳内における化学物質の生成や電気信号の伝達に過ぎないというのが現代の常識(この常識がパラダイムシフトで変わる可能性も否めないが、ここでは考慮しない)となっており、その帰結はあらゆる悲しみも喜びも幸せも楽しみも怒りも全ては食塩、塩化ナトリウムとよく似たものです。言い換えれば、頭の中で食塩のようなものができてそれに反応してることが人生の意味だと受け入れることがどの程度いるか気になるところです。(と同時に、恋愛至上主義者の墓場ができることを願ってやまないこの頃です。)

では、自分の好きなものを集めるといったある種のコレクションに意味を求めてみるのはどうでしょうか?

ここでは「消費社会の神話と構造」の一節を引用します。

「つまり、浪費は常に一種の狂気、錯乱、本能の機能障害とみなされている。人間に貯えを費やさせ、非合理的行動によって生存条件を危うくさせる、そんな狂気というわけだ。

こうした考えからは、少なくとも次の事実が図らずも明らかになる。われわれが真に豊かな時代にいるのではなくて、現代に生きる個人や集団や社会や種としての人類そのものが稀少性の記号のもとにおかれているという事実である。」

詳細が気になる方は、上記の本を読んでほしいです。

では、美しさのようなものに意味を求めてみるのはどうでしょうか?

私の場合は詰まる所、ここに意味を求めるのしかないのかなと考えています。

美しさに意味を求めるとは言い換えると、私たちが全能ではなく、身体を有して永遠を生きることができない、という事実から生まれる不可能性に神秘性を感じ、その神秘性を信仰するということです。

しかし、これもまた幻想なのでしょう......

所詮はその美しさを感じるのも感情の一つに過ぎないのですから。

私なりの結論で言うと、意味なんてものは私たちの幻想に過ぎません。しかし、その幻想を信じることができる領域、個人によって神秘性を感じることができる領域は異なります。だから、すくなくとも狭義の私たちは神秘性を感じる領域を探すしかないのです。そして、神秘性を感じるものがあるならば、その神秘性のベールを剥がしてはいけないのです。そして、その幻想を生み出してくれる日常を愛し、またその幻想を生み出してくれる日常に愛されないといけない、すなわち幻想を生み出してくれる環境に身を置かないといけないのです。

そして、私がよく死にたくなる理由は現在を含めた今後、おそらくそういった環境に身を置くことができないからです。あまりに私が感受できる幻想の数が少なくなり、その数少ない幻想にはお金と時間が必要で、私のような富豪でないものにとってはその2つは極めてトレードオフの関係が成り立っているからです。もっと早くこのことに気づけば。富豪のように生きられれば。もっと勉学や芸術に対して自覚的になることができるほどの才能があれば。そう悔やんでも仕方のないことですが、もし神がいるなら意地悪だなと思います。いや、きっと神ならこういったコメディを楽しむのでしょうか?

愛する日常を渇望しつつ、愛されない日常で生きる私はもはやすでに死んでいるに等しく、生きることから生じる苦しみの量が死ぬ過程に生じる苦しみの量に勝る時、私は自殺するのだと思います。

どうかこの文章を読んでくださった人は、日常を愛し、そして愛されてください。

 

 

意味/死(前編)

引き続きブログのお題を求めてるんで(時間があるとき、他にやる気が出ないときに極力書こうと思います)、気軽にリプしてもらえたらありがたいです。

さて、今回の寄せられて私なりに応えたいお題は、

・世の人の言う「世界や人生が意味を持つ」とは?

・私の人生観

・知識欲があって勉強熱心そうなのに、なぜ私が死にたがるのか?

というものです。どれも根底にあるテーマは似通ってると思うので、まとめてお返事しようと思います。

全然関係ないんですが、書く日の精神状態で私の文体すごい変わりますね。今回は数回に分けて書こうと思います。

まず、世の人の言う「世界や人生が意味を持つ」とはどういうことでしょうか?私の推測ですが、特にあまり何も考えてないその場しのぎの発言だと思っています。(該当する方でもし違ったらすいません)そもそも、世の人が「世界や人生が意味を持つ」と発言するようなときは大抵、「世界や人生が意味を持たない」とする人や人生に疲れて自殺をしようとしている人に対して、「おい、早まるな。その考えは良くない。この世界もいいもんだぜ!」的なことを伝えたいときだと思っています。この答え方に関して思うことは、まず考え/思想に優劣をつけているということとたしかにその発言者にとっての世界はいいものかもしれないけれど、「私とあなたでは同じ世界に存在しているが、違う世界観を有しており、あなたの世界から見るこの世界と私の世界から見るこの世界は異なる。」という前提を忘れがちな人が多いということと、「世界が発言者にとって心地いいものである」ということと「世界や人生に普遍的な意味がある」ということはまったくもって別であるということを認識していないということです。そもそも「意味」とはなんでしょうか?僕は生物や進化に関してはダーウィニズムを信じている方なので(ラマルク派の人には申し訳ない)、私という存在の生物としての意義は人類という種のランダム性の確保、および人類という種の保存、およびもっと大きな目で見れば生物という種の多様性の一部、程度しかないと思っています。でも、大抵の人はそんなことのために私は生きているのではない、と思われると思います。でも、断言すると所詮そんなもんです。ヒトが生物学的に見たとき生きる意味なんてそんなものです。では、他の学問のように考えるならば、生きる意味はどこにあるのでしょうか?

(続く)