私的な気づきのメモ

2018/11/11

 

言葉が暗喩的ならば、言葉より身体性が先にある

 

言葉はネットワーク的に構成されているが、その二つのノードを繋ぐものは同質性、相似性などである。だが、その同質性、相似性などはノードの一部でしかないことも多い。

 

すなわち暗喩ではその単語の一部のみしか表現できないことが多々ある。単語はその集合である。

 

文学を含む作品は欲望をデザインする

 

というのも、欲望は極めて流動的だからだ

 

ならば、文学を含む作品で他者の欲望を規定できる

 

"真"の欲望はどこにもない

 

言葉との新しい関係に変わった定義が現状の欲望より"まし"になるということによって"真"の欲望に近づいていると感じるだけだ。

 

2018/11/13

 

既に存在している検索というシステムは脳のような構造をしているのだろうか

 

「ような」という言葉を用いるとき、その表現はメタファである

欲望と私達

流れるように生きていないだろうか?

流れるままに生きるというのは肯定的な文脈でも否定的な文脈でも語られるような気がする。私自身も流れるままに生きるということに対して肯定的でも否定的でもないのだが、私自身の人生が流れるようなものであって欲しくはないと思っている。
もし、流れるように生きたいと思う人はここでブラウザバックをするべきように思う。これから私が語ることはどうすれば流れるように生きないか、すなわち自らの意志を持って生きるかについて私が思うことであるからだ。

 

手順

1.欲望を同定する

2.欲望に従うために計画する

3.欲望に従う

1.欲望を同定する

2.欲望に従うために計画する

......

のような手順を踏めばよいと思われる。

 

1.欲望を同定する

自分の中の「真」の欲望が何かを見つける行程である。(もちろん「真」の欲望は存在しないが)

はじめのとっかかりとしてまずは金銭面、時間面に囚われず、したいことを考えてみる(たとえば、来月から1ヶ月間お金もあって時間もたっぷりあるような状況を考える)。

たとえば、それが油絵を描きたい、だとする。ただそのとき私達は油絵を描きたいと思いつつ、油絵を描くこと自体は求めていないことが多い。たとえば油絵を通して、他者から承認されたい、世界に認められたい、自己の内面を表現したい、ただ美的なものを作りたい......などいろいろあると思われる。これを深い欲望と呼ぶことにする。できればこの段階で深い欲望を考えてみるとよいように思われる。

 

2.欲望に従うために計画する

では、その次にどのように欲望に従うかだ。油絵の例で話を進めるなら、深い欲望によってするべきことは変わる。たとえば他者から承認されたいならば部活動で展示に出したり、自己の内面を表現したいならば絵を描くだけでなく哲学書を読んだりすることも重要になるかもしれない。

また、金銭を含めた実現可能性も考慮しよう。それを学ぶ場に行く、それを職業にする、空き時間が多い職に就くなどを意識するのはいいかもしれない。

 

3.欲望に従う

2.の計画に従うだけだ。

実行した時に何か違うという違和感を感じればその時は1.の欲望(特に深い欲望)をもう一度振り返る。

 

 

恋とか愛とかそういった曖昧なものに対する覚え書きに関するモノローグ

どうも、前回は7/29ですね。

約一ヶ月ぶりですが、モノローグしていこうと思います。

私たちはどういった恋愛小説に惹かれるでしょうか。私は三秋縋のように閉じた2人の関係の恋愛に関する小説が好きですが(思えば「狭き門」もそうでしたか?でも、読み終わってから2,3年経って忘れてしまいました)、一般的に恋愛小説は対象が多いような気がします(特に漫画は、と書こうとしましたが「私の少年」も思えば閉じた2人の関係でしょうか?)。最近、いろんなことから遠ざかっているからか“思えば”という言葉が多いですね。ボヴァリー夫人感情教育なども気になってはいるのですが、やはり積んでいます。

でも、そもそも恋愛小説であるか恋愛小説ではないかの境界はなかなか曖昧であるような気がします。もちろん、明らかに恋愛の「れ」もないような小説も多数存在するのですが、森博嗣のS&Mシリーズのように恋愛が微かに見える気がする小説もありますね。よく考えたら、私がこうやったしょうもないブログに書くよりロランバルトの著書に恋愛に関する本があったので、それを読む方がいいのかもしれませんね。金欠のため難しい気もするし、それを買うなら今は明るい部屋を購入したいですが。

同様に、私たちは恋人なのか友人なのかという境界もなかなか曖昧であるような気がします。私は詰まる所、この境界(恋愛における本質的なこと)に関して、私たちは誰一人として理解していないのではないか、と思います。そもそも、恋愛において本質的なことなんてどこにもなくて、むしろ事象が先にあるのかもしれません(どこかで聞いたことがあるフレーズですね)。

ただ、恋愛における本質的なことをおそらく理解していない私にも言えそうなことが2つあります。(コンサルタント志望ならば、ここは無理にでも3つにしたのでしょうか?)

1つ目はコードが恋愛かどうかを規定し得るものである可能性があるということです。例えば、自己の年齢であったり、自己の年収であったり、自己の外見であったり、自己の過去の記憶であったり、そういった自己の変化し得るコードが理想を規定するということです。そして、恋愛対象もコードが存在していて、それらのコードは常に変化します。結構なカップルはコードが変化した結果、別れるのかもしれませんね(付き合い始める前から別れることを前提にしていたことがあるので、一概には言えませんが)。

2つ目は恋愛という形式が絶対的なものではなく、相対的なものであるということです。運命の相手がいるわけではなく、置かれた現状で比較して相手を選ぼうとしているということです。そう考えれば、恋愛における本質的なことがないのは必然なのかもしれません。市場の価格決定を思い出してしまいますが、案外的を得ているのかもしれませんね。ただ、あまり恋愛工学のコンセプトが好きにはなれないので、それらに関する書籍を読んだことはないのですが。

図らずも書きながら3つ目が生まれたので書きますが、"付き合う"、"結婚する"といった契約だけが、私たちの恋愛を相対的なものから絶対的なものに変えようとするのかもしれませんね。契約を結ぶという段階は相対的であり、またこうありたいという理想がある限り、また現状と比較して相対化するのでしょうが。

私は恋愛において相対化が起こると、別れる可能性が増すと思っているので、もしこの仮定が正しくて、ある人が付き合っている人と別れたくないならば、いかに相対化を避けるか、言い換えると競合相手を作ろうとせず、理想に想いを馳せすぎず、身近なところに恋愛というものを置くことが重要なのかもしれませんね。

 

私が勉強してきたこと及びちょっとしたブックガイド

もしここに載っていることで気になることがあれば、話しかけていただいたらありがたいです。

 

株式投資

大学に入りたての頃にお金がこういう風にして回っているんだなと感動した覚えがあります。

参考図書

敗者のゲーム

株式投資の未来

ウォール街のランダムウォーカー

その中でも特に暴落という現象が好きでずっと暴落について考えていた頃もあった気がします。歴史は繰り返すのかなと感じました。

参考図書

12大事件で読む現代金融入門

不安定化する国際金融システム

【経営】

徐々に経営自体に興味を持ち始めましたが、今振り返ったらそこまで僕には興味がなかったかもしれません。

参考図書

新・企業価値評価

経営戦略(出版社ファーストプレス)

(各社の社史のようなもの(exP&Gウェイ))

【哲学】

なぜか大学二年あたりからすこし興味を持ちました。個人的にはまとまった時間が必要だと思います。次まとまった時間ができたらフーコーを読みたいですね、いつになるやら。

参考図書

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考」を読む

消費社会の神話と構造

存在論的、郵便的(精神分析は飛ばした)

(ゲンロン0)

【文学】

なぜか哲学に寄ってからすこしずつ趣味で始めたけど、哲学もそうですけど学問というより趣味に近い感じなんで、こう勉強しましたとか特にないです。とりあえずまとまった時間ができたら柄谷行人の文学批評3冊くらい読みたいですね。柄谷行人途中までしか読んでないですが、とても好きでした。

参考図書

私学的、あまりに私学的な(7割くらい)

日本近代文学の起源(5割くらい)

異邦人

闘争領域の拡大

痴人の愛

罪と罰

肉体の悪魔

狭き門

【プログラミング】【数学】

初歩の初歩だけ知っている状態、もうすこし深めたいです。代数学に詳しい人いたら独学でできる本、勉強した道筋など教えてもらえたら幸いです。

量子力学

初歩を知っているくらい、なかなか面白かったしもうすこししたいんですけど、人生の残された時間的にできるかどうかはかなり怪しいですね。

【生物学】

免疫学の本をとりあえず買いました。今年使ってだらだら読みそう。

 

 

 

 

恋とか愛とかそういった曖昧なものに関する覚え書きのプロローグ

おはようございます、あるいはこんにちは、あるいはこんばんは。みなさんの心のはりねずみことはりねずみです。こんばんは。最近ハリネズミさんにフォローされてみなさんの心のはりねずみがひょっとして自分以外にもいるんじゃなかろうか?なんていう余計な心配をしています。余計ですね。

 

はりねずみよ、もっと恋とか愛とかそう言った曖昧なもの以外に書くことはないのか?と思われそうですが、ないです。株式投資の勉強からは離れたし、文学も読んでるには読んでるけどっていう感じだし、哲学は最近読めてないし、数学は買うだけ買ってできてないし、量子力学はやるにはやったけど語ることはないし。みたいな感じですね。あと映画も最近観てないです。Quality of Yearが低そうな毎日を過ごしています。それなりに忙しいです。去年もそれなりにやってたはずだけど、今年はなんというか本当に物理的に空きが少ない。

 

さてそろそろ恋とか愛とかについて話せよ!と思われそうで怖いですね。昨日たまたま目にしたブログで「語りえぬものに対し沈黙するのが哲学者ならば、語りえぬものに対し全力であることないこと断言決めるのがブロガーだ!」と書いてましたが、はりねずみはいわゆるプロのブロガーでもなく、PV数を気にしているわけでもないので、脱線しながらまとまりなく続けていこうと思います。

 

私はいわゆる恋愛の達人的somethingではありません(最近のマイ流行語な「○○的something」なんですが流行らないですか?流行らないですよね、わかります。)ほどほどに付き合って、ほどほどに続いて、ほどほどに別れてを数回繰り返したあと今に至ります。でも、いわゆる取っ替え引っ替えのように恋愛をする人が達人とは私は思っていない(むしろ恋愛下手?なのかなと思っています、あと恋愛ブロガーとか恋愛コンサルタントみたいに自分で語るのはダサい気がしますが、まぁ感情論でしょうか?)ので、どういった人が恋愛の達人なのでしょうか?そう考えたら、恋愛の達人は人生の最後にこの人と結婚できてよかったなって思うようなお爺さんが一番当てはまりそうですが、まぁ年齢的にもお爺さんに聞くわけにもいかないので、はりねずみにとっての恋とか愛とかを語っていきます。

 

と思いましたが、眠っちゃったので、やめておきます。

 

好きな人の好きなところ

その人と初めて話したとき、その人のことを好きになる予感はしていた。

それからおよそ半年経って、そのときの自分でも想像できないほど好きになっていた。

その半年間に、その人がきっかけで付き合っていた人と別れたり、個人的に苦しいことがあったり、いろいろしんどかったように思う。とは言え、そのことももう三ヶ月以上前なので、ほぼ覚えていないのだが。見栄を張った、覚えている。

今回好きな人の好きなところをこうして書こうと思ったのは、経験上好きな人の好きなところは好きでいられるときに書かなければ解像度が落ちてしまう気がしたからだ。来週告白をする。たぶん。

この人と付き合えなかったら、どうなるんだろうな。そう考えると気持ちが暗くなる。だから、普段は考えないようにしている。毎日電話する習慣が失われたら生きにくくなりそう。まぁ、そんなこと知らないけど。

正直、すこし告白したくない。でも、きっと今告白して振られたなら、それはn年後に告白しても変わらなさそうだからしようと思う。もしn年後に告白したらうまくいったなら、そのときの自分、ごめん。でも、そんなこと知らない。

内面に惹かれるというのは、とても恐ろしい。本当に恐ろしい。

私は「どうでもいい話なんだけど、」と言ってから本当にどうでもいい話をするのだけれども、そのどうでもいい話をどうでもいいなぁって思われながら楽しそうに聞いてもらってるのが好き。

その人に告白をしてうまくいかなかったときにきっと連絡を取らなくなるようになるところも好き。

その人に最近学んだことを話して楽しそうに聞いてもらえるのが好き。でも、どうして楽しんで聞いてくれるのかが不思議で聞いてみたけど、どうしてみんなそうじゃないの?って逆に聞き返されて、みんなこういう人だったらいいのにな、と思いつつ、まぁ一人でもいるならそれでもいいかなと思った。

その人に弱いところを見せられるところも好き。未だに自分の弱いところはあまり好きにはならない。

時折寂しそうな感じが滲み出ていたのも好き。でも、今はもうそこまで寂しそうな感じが以前ほど滲み出てなくて、それにすこしでも貢献できてたなら嬉しいなと思う。と同時に付き合わなかったら、すこし苦しんでほしいと思う我儘な自分でごめんなさい。

関わる人に優しいところも好き。きつい人が好きなのかなって自分自身では思ってたけど、親の好きなところと同じところをやっぱり好きになるのだなと思った。

時々意地悪なところも好き。私もどうやら同じくらい意地悪なことをしてると指摘されて笑ってしまった。

好きなことを好きだと言えるところが好き。素直に尊敬しています。

好きってこの文章だけで何回打っているのだろう。

そんなこと知らない。

そもそも好きってどういうことだろう。

そんなこと知らない。

再来週どうなっているだろう。

そんなこと知らない。

来週うまくいってますように。

きっとこれが......

 

付き合うという契約が終わる時

付き合うというのは海外の事情は知らないけれども、日本の場合は《契約》に近いものだと思う。

もし、そうだとするならば、私は1つの《契約》をクリスマスイブに終わらせた。なにもクリスマスイブじゃなくてもいいのに。振った方である私でさえ、そう思った。クリスマスというイベントに相手に合わせることはあってもそこまで意味を感じない私も一応クリスマスを意識するのか?と思ったが、どちらかというと付き合っていた人のことを考えて申し訳なくなった、という方が正しいような気もする。

話が脱線してしまった。そもそも私と付き合っていた人には《ズレ》がいくつかあった。学生もどきと社会人。インドアとアウトドア。イベント嫌いとイベント好き。読書好きと読書しない。映画好きとハッピーエンド以外の映画嫌い。関西と関東。ネガティヴとポジティブ。けれども、そもそも他の人と《ズレ》がない人はいないわけで、契約が終わった理由にはなり得ないだろう。ただ、関西と関東という身体的距離が遠かったのは理由になるかもしれない。しかし、その原因も私にあったけど。

話が脱線してしまった。いや、そもそも話したいことなんて何もなくて、ただ書き留めているように書いているのだけれども。私が付き合っていた人のどういうところに魅力を感じていたのだろう?きっと笑顔だろう。けれども、もうその笑顔は、切り取られた瞬間が保存されているものを引き出す画面の上でしか見ることはできないだろう。なぜ時間を止める/逆らうことはできないのだろうと、クリスマスイブに別れた場所である新大阪に向かう途中で思っていた。もちろん、止まるはずはないけど。

ただ書き留めているだけれども、終着点はあるのだろうか?大阪、京都、神戸、東京、神奈川、ある程度縁のある土地には付き合っていた人と全て行ってしまった。私の実家近く、私のお気に入りの喫茶店、私が好きな眺めが良い場所、私の通っていた大学、そういったところにも付き合っていた人と行ってしまった。春、夏、秋、冬、全ての季節を付き合っていた人と過ごしてしまった。私はこれから、どこにいたら、いつにいたら付き合っていた人の幻を感じないだろうか?それはまだ私にも分からない。そもそもこれから幻を感じるかどうかもわからない。きっと感じるだろうけど。

そもそも、この話に終着点が必要なのだろうか?私は付き合っていた時、たしかに必要とされていた。もしかしたら今この瞬間も必要とされているのかもしれない。今の私に必要とされているかどうかを知る手段はないけど。

終着点は恐らくない。《契約》が終わっても、私と付き合っていた人は生きている限り、人生は終わらない。トートロジー。私は昨日自殺するべきだったのかもしれない。私は私がひどい振り方をした自覚もある。けれども、私はまだ自殺をしてはなく、私はまた遅かれ早かれ他の人と《契約》を結ぶのかもしれない。もちろん結ばずに孤独に生きるのかもしれないけど、そうなってしまった結果も全て私が選んだ選択の帰結で仕方ない。そう、世の中は仕方ないことだらけである。あの選択もこの選択もどの選択も仕方ない。仕方ない。仕方ない。仕方ないということと罪悪感を感じないということは別だけど。

私が付き合っていた人にできることはもうほとんど何もないだろう。会うこともないだろう。こんな文を書いても何の意味もない。もともと意味がある事象なんて何もないから、当たり前だけど。終わってしまった、そして終わらせてしまった。罪の意識はいつまで残っているのだろう。でも、罪の意識が消えてしまうことの方が怖い。

ただ、私ができる唯一の意味がない行為は付き合っていた人のこれからの人生に訪れる幸福を祈るのみである。

さようなら。私に付き合うという《コト》をきちんと教えてくれた人。

 

さようなら。